2008年1月9日水曜日

イングランドの笑う猫 5

* * *

アリスは空中に奇妙なものが現れたのに気がつきました。最初のうちは何だか分りませんでしたが、1、2分よく見ているうちに、それがにやにや笑いだと分りました。アリスは「チェシャ猫だわ」とつぶやきました。
「調子はどうだい?」しゃべれるほど充分に口が現れるとすぐに猫が言いました。

* * *

ホテルに戻っての夕食後、散歩に出かけた。午後8時半頃だったが、やっと日が沈もうとしているときでまだ充分に明るかった。日中の暑さの名残はあるものの、涼しい風が吹き始めていた。チェスターの街は歩いて回るのにちょうどいい広さだ。午後にはチェシャ猫狩りで忙しくてゆっくり見ている暇もなかった通りを、今度はゆるゆると歩いた。もう店はすべて閉まり、道路にあふれていた観光客の姿も今はまばらになっていた。

イギリスは日本と同じくらい治安のいい国らしい。日が沈むまで時間があるから散歩でもなさったら、とガイドさんも勧めるほどで、海外ではあってもまったく緊張しないで町の中を歩くことができた。(さすがにロンドンでは必ずしもそういうわけにはいかず、第一泊まったホテルがロンドン警視庁のすぐ向かいだったので、部屋の中まで聞こえてくるサイレンの音でなかなか眠れなかったのだが。)

昼間にも歩いた城壁の上を今度は二人でゆっくりと歩いて行くと、向こうからジョギングする青年が走ってきて私達とすれ違った。見下ろした先にある空き地では男の子達がサッカーに興じていた。中世の面影を残すチェスターの町並は私達のような遠い国の者にもなぜか不思議な懐かしさを感じさせ、まだここから出発もしていないのに、もう一度来たい、と思わせるのだった。

そろそろ暗くなり始めた頃ホテルに戻り、部屋でお茶を飲んだ。この旅行中に泊まったどのホテルの部屋にも紅茶のティーバッグとポット、カップ、湯沸かしが置いてあった。噂通りイギリス人がたとえ暑い夏の最中でも熱いお茶しか飲まないのかどうかは確かめなかったが、少なくともホテルの部屋には必ずお茶が飲める用意がしてあった。イギリスと日本ではそもそも水の質が異なるので日本にいてイギリスの紅茶の味を求めても難しいのだそうだが、それ以外にも日本の喫茶店で飲む紅茶とイギリスで飲む紅茶では異なる点があった。

日本でならたいがいの喫茶店では紅茶を頼むとレモンティーかミルクティーかと尋ねられる。しかしイギリスでティーといえば例外なくミルクティーのことだ。それも日本の喫茶店のようにクリームではなく、文字通りのミルクを紅茶に入れるのだ。日本でファミリーレストランなどに行くとテーブルの上に小さなプラスチックの容器に入ったクリームが置いてあるが、イギリスのホテルの部屋ではあれと同じ形の容器にクリームではなくミルクが入って、ティーバッグとともに置かれてあった。ただし、大きさは2倍か3倍である。そのたっぷりのミルクを紅茶に入れて飲むのがイギリス式のミルクティーであるようだった。私達もイギリスの紅茶に敬意を表して、暑い部屋で(もちろんここチェスターのホテルにも冷房はない)熱いミルクティーを飲んでいた。「暑いときにこそ熱いものを飲めば汗をかいて涼しくなる」というのがイギリス人の言い分だと何かの本で読んだが、少々狭くて窓もあまり広くは開かないホテルの暑い部屋で熱いお茶を飲むと、やはり全然涼しくはならないのだった。

続く

2008年1月8日火曜日

イングランドの笑う猫 4

* * *


「ジーニアス英和辞典」の記述によれば、「不思議の国のアリス」より前に、すでに “grin like a Cheshire cat” という慣用句が存在した。他の辞典の記述とは食い違うわけだが、では「アリス」とこの句の成立とではどちらが先なのだろうか。手近の資料を漁ってみたところ、次のような記述を発見した。

チェシャ猫:チェシャ(またはチェシャー)はキャロルが生まれた州の名。昔からgrin like a Cheshire cat(わけもなくにやにや笑う)という言い方があった。
(集英社文庫:「ふしぎの国のアリス」の訳注)

Cheshire-Cat:grin like a Cheshire-Cat「わけもなくにやにや笑う」という成句を逆用したもの。Cheshire-Catという固有の猫族があるのではない。
(旺文社英文学習ライブラリー 「ふしぎの国のアリス」の解説)

Ⅵ章にでてくるCheshire-Catは、キャロルの時代によく使われたto grin like a Cheshire cat という成句から比喩の例示の部分を独立させて逆成(back formation)したものである(しかし、今日ではこの「アリス」のCheshire-Cat が本家と思われるほど有名となった)。
(研究社出版:「アリスの英語-不思議の国のことば学-」)

残念ながらいずれの本にもこれらの記述の根拠は示されていないので、他の資料でそのあたりを探ってみよう。英語の単語や句の起源を調べるなら、何といっても権威のあるのはOxford English Dictionary (OED)だ。「不思議の国のアリス」が出版されたのは1865年だが、OEDで調べると、それ以前にすでにこの慣用句の用例がある。


1770-1819 Lo! like a Cheshire cat our court will grin.
1855 Mr. Newcome says.. ‘That woman grins like a Cheshire cat.’


「アリス」についてはこの句の用例のひとつとして扱われている。ということは、やはり、「アリス」がこの句の起源なのではないということになる。つまりキャロルは「チェシャ猫のように笑う」という表現が存在することを知っていて、その言葉どおりににやにや笑う猫、チェシャ猫を登場させたのだ。そう思ってみれば、「アリス」の読み方も少々変わってくる。「不思議の国のアリス」でチェシャ猫が初めて登場する場面はこうなっている。


アリスが公爵夫人の家に入ると、公爵夫人、胡椒を入れ過ぎたスープをかき回しているコック、赤ん坊、そして炉辺に座って耳まで裂けるほどにやにや笑っている大きな猫がいた。

‘Please would you tell me,’ said Alice, a little timidly.. ‘why your cat grins like that?’

‘It’s a Cheshire cat,’ said the Duchess, ‘and that’s why.’..

‘I didn’t know that Cheshire cats always grinned; in fact, I didn’t know that cats could grin.’

‘They all can,’ said the Duchess; ‘and most of ’em do.’


「教えていただけますでしょうか」アリスはちょっとおどおどして言いました。「なぜあなたの猫はそんな風ににやにや笑っているんですか」

「チェシャーの猫だからよ」公爵夫人は言いました。「決まってるじゃない」

「チェシャーの猫はみんなにやにや笑うとは知りませんでした。というより、猫が笑えるとは思ってもみませんでした」

「笑えるわよ」と公爵夫人。「たいていの猫は笑うわ」



チェシャ猫が作者達の全くの創作ならば、猫が笑うのも「不思議の国」の不思議なできごとのひとつということになろう。だが慣用句の方が先に存在したとすると話はちがってくる。この本が初めて出版されたときの読者にとっては、「チェシャーの猫のように笑う」という句を知っていれば、ああ、あれか、とニヤリとするところだろう。言葉の上だけでの比喩であったものが実体を伴って登場する。例えば “cool as a cucumber” (キュウリのようにクール;落着き払って、涼しい顔で)という慣用句を下敷きにして、実際に冷たいキュウリを登場させるようなものだ。チェシャ猫がキャロルとテニエルのまったくの創作だった場合よりもおもしろみがあると言えるかも知れない。また、なにしろこの物語にはしゃれ、パロディ、慣用句をその文字通りの意味でとらえたジョークなどの言葉遊びが満載されているので、チェシャ猫がその類のジョークであったとしても不思議はない。


余談だが、1980年のアメリカ映画「フライング・ハイ」《原題:Airplane!》は、慣用句を故意に文字通りの意味でとらえて、さらにそれをそのまま映像化して見せるというギャグで埋め尽くして作られていた。せりふは英語なので、慣用句ももちろん英語である。英語のせりふが聞き取れ、かつ慣用句の意味を知らないと笑えないというコメディで、この映画の日本公開のときには字幕担当者は相当苦労したのではないかと思われる。

物語の筋は、機長以下パイロット全員が食中毒で操縦不能に陥ったジェット旅客機を、たまたま無事だったスチュワーデスと、偶然乗客として乗っていた彼女の元恋人(彼は元空軍のパイロットだが、戦争中に自分のミスで戦友を死なせてしまい、それがトラウマとなって飛行機の操縦ができない)がなんとか無事に着陸させる、というものだった。

この中のひとつのシーンでは、元空軍パイロットが “When the band begins to play...” (「事態が深刻になったら・・・」)と言うと、話の筋とは何の関係もなく、コックピットにいるその他全員が突然管楽器の演奏を始める。もちろん、その慣用句の文字通りの意味(「バンドが演奏を始めたら」)をそのままやっているわけだ。

また、セリフのやりとりにもこの手のギャグが詰め込まれていて、例えばAとBの会話で、

A: Johnny, what can you make out of this?(ジョニー、これから何がわかる?)[Hands him a piece of paper](一枚の書類を手渡す)

B: This? Why, I can make a hat or a brooch or a pterodactyl -(これから? そうだな、帽子とか、ブローチとか、プテラノドンとか…)

“make out of...” は文字通りには「・・・から作り出す」の意味だが、Aのセリフでは「分る、理解する」の意味の慣用表現なのだ。なお、物語全体の筋自体も有名な1970年の航空パニック映画「大空港」《原題:Airport》その他のパロディであった。


「アリス」にはチェシャ猫以外にも同様のネーミングをされているキャラクターが登場するのはよく知られているところで、第Ⅶ章の “A MAD TEA-PARTY” に出てくる三月ウサギ(March Hare)は、 “as mad as a March hare” (春の交尾期のウサギのように狂気じみた)という、たいていの英和辞典に載っている有名な成句を元にしている。その成句にある通り、「アリス」に登場する三月ウサギは、もちろん頭がおかしい。さらに、このウサギとともにおかしなお茶会をくりひろげる帽子屋(Hatter)も同様の過程を経て作られたキャラクターで、英和辞典をひいてみればわかる通り “as mad as a hatter” (まったく気が狂った)という成句が存在するのだ。(一説によると、昔の帽子職人は帽子の製造過程で水銀を用いたため、それによる中毒で精神に異常をきたすことがあったのだという。)


さて、「アリス」はどうやら “grin like a Cheshire cat” の起源ではないらしい。そうすると依然としてよく分らないのは、なぜ「猫が笑う」というような不思議な比喩をするのかということだ。この点ではOEDも “undetermined” (明らかでない)としている。定説はないということだろうか。手近の資料では、前掲の「旺文社英文学習ライブラリー」の解説に次のように載っている。


英語の成句に grin like a Cheshire cat というのがあって、「ただむやみににやにや笑う」という意味であるが、外国人に対して愛想笑いのすぎる一部の日本人なんぞにも適用できるかもしれない。実は、この Cheshire cat の正体は不明なのである。何でも二説があって、ひとつはキャロルの故郷であるチェシャ州のある看板画家がその地方の宿屋の看板に、にやにや笑う獅子をかいたところからという。虎をかいて猫になるとは中国の故事でもあるけれども、獅子をかいてどうまちがって猫になったのかまでは筆者も知らない。もうひとつはチェシャ産のチーズといって大形で平たい円形チーズがあって、それがにやにや笑う猫の形に作られていたとか。どうもこっちがもっともらしい。それにしてもキャロルの最初の原稿にはこの猫はいなかった。今ではその原稿は5万ドルでアメリカから買いもどされ、大英博物館に収まっている。


つまり、1) 看板画家説 2) 猫型チーズ説の2つがあるらしい。順番に検討してみよう。まず 1) 看板画家が獅子を描いたらそれが笑う猫になった(そう見えるほど下手だったということか?)という説。これについては、同じ説を挙げている資料が他に見当たらないのだが、やや異なってはいるもののよく似た説は発見できた。それによると、この笑う猫の起源は現在でははっきりしないながらも、多くの人の信じるところでは、中世の画家がチェシャーの紋章を描くときに歯をむいているライオンを描こうとしたが、それまで一度もライオンというものを見たことがなかったので、できあがった紋章の絵はライオンというよりは笑っている猫に驚くほど似ていたということだ。




中世のチェシャー州の紋章がどのようなものだったのかは調べがつかなかったが、現在のチェスター市議会の紋章は左図のようなものだ。中央に見える盾の左半分に、縦方向に3匹の動物が並んでいる。よく見るとこれは3頭のライオンだ。上に挙げた説の原文は英語だが、そこではライオンは “lions”と複数形になっている。中世の紋章も右図と似たようなものだったとすると、小さく描かれたこの3頭のライオンあたりがまるで猫に見えたということだろうか。

また、「不思議の国の“アリス”-ルイス・キャロルとふたりのアリス」(舟崎克彦・笠井勝子 著、求龍堂)では、

一説には、チェシャ州の名門グローヴナ家の紋章にある猟犬を、猫に描き間違えた画家の失敗からきているという話もある

と紹介している。次に 2)猫型チーズ説だが、前掲の解説ではこちらの方がもっともらしいとしている。専門辞典で調べてみると、「英語諺辞典」(三省堂)では、

grin like a Cheshire cat: チェシャー猫のようにわけもなくただにやにや笑う。Cheshire catはLewis CarrollのAlice’s Adventures in Wonderland(1865)に出てくるにやにや笑う猫。チェシャー産のチーズが昔笑っている猫に似た形にして売られたのがこの句の起源と説明する人がいる。

と、「アリス」をあげながらも、チーズ説も紹介している。 Brewer’s Dictionary of Phrase and Fable でも、 “grin like a Cheshire cat” は、

An old simile popularized by Lewis Carroll. The phrase has never been satisfactorily explained, but it has been said that Cheshire cheese was once sold moulded like a cat that appeared to be grinning. (ルイス・キャロルによって広く知られるようになった直喩で、この句の起源については充分には分っていないが、チェシャーチーズがかつて笑っているように見える猫の形にして売られたと言われている)

チェシャーチーズはほぼチェダーチーズと同じもので、通常なら太い円筒形をしている。「新グローバル英和辞典」によれば「ぼろぼろした感じの甘味」だそうだ。チーズは型に入れて固めるから、猫型の型を使ったということなのだろう。 Encyclopedia Britannica によればイギリス産のチーズでは “Most widely known and consumed of these is Cheddar cheese, followed by Cheshire and others.” (最もよく知られ消費量も多いのはチェダーチーズで、チェシャーその他がそれに次ぐ)ということだ。チェシャーといえばまずはこのチーズで有名らしく、辞書をひいてみても、

Cheshire: a kind of firm crumbly cheese, orig. made in Cheshire [Cheshire, a county in England]

( Concise Oxford Dictionary )

Cheshire【名】:1 チェシャー《イングランド西部の州;【略】Ches.》. 2 =→~ cheese.
(ジーニアス英和辞典)

Cheshire: -n. 1 チェシア 《イングランド北西部の州; ☆Chester; 略 Ches.》. 2 →CHESHIRE CHEESE.
(リーダーズ英和辞典)


というわけで、 “Cheshire cheese” ではなく単なる “Cheshire” だけでチェシャーチーズのことを指すほどだ。それほどまでに有名なら、もし猫型チーズが作られてそれが大いに売れれば、辞書に載るほどよく知られた成句となる可能性はかなり高いように思われる。どうやらこれがこの句の起源だろうか。

続く

2008年1月7日月曜日

イングランドの笑う猫 3

「じゃ、そこで会おう」と猫が言いました。そして、突然消えてしまいました。アリスが猫のいた場所を見ていると、猫はまた突然現れました。

* * *

勇んで置物のチェシャ猫探しに出かけた私達は、少なからず苦労することになった。

チェスターの中心部には中世以来の古い家々が建ち並んでいて、歴史的町並保存地区といった趣きだが、その家々はテナントビルになっていて “the Rows” と呼ぶ商店街を形作っている。1軒1軒の家は3階か4階建てで一応それぞれ独立はしているのだが、家と家の間には隙間がなく何軒も軒を接している。商店は1階と2階にあり、2階の店に上がるには所々の家の外側の壁に設けられた階段を上る。では、外に階段がない家で2階の店に行くにはどうするかというと、ぴったりとくっついて建っている家々の2階、通りに面した側には必ずバルコニーがあり、これが同じブロック内の家々でつながっていて、まるで歩道のようになっているのだ。階段はこの歩道に上がるようになっている。通りを歩いていて2階の店を見たくなったときには、家の外の階段でまずこの歩道に上がる。2階の店はこの歩道に面している。隣の家の2階の店に移動するには、わざわざ地上に降りる必要はない。店の外の歩道に出て数歩も歩けばもう目的の店に着いているというわけだ。

この古い町並の商店街の店を片端から探したのだが、目的のものがなかなか見つからない。そもそもここに入っているテナントはファッション関係の店が多かったから無理もないのだが、このザ・ロウズに隣接する近代的なショッピングモールを歩き回っても、土産物屋や陶器店らしきものが見当たらないのだ。こうなるとのんきに「マイスタージンガー」の鼻歌など歌っている余裕もなくなってくる。というのは、チェスターに限らずどこの町でもそうだったのだが、ここイギリスではたいていの商店は午後4時半には閉まってしまうのだ。我々がチェスターに到着してからホテルに荷物を置き、ガイドさんの後について市内の見学をし終わったときにはもう3時を回っていた。最初は街の様子など眺めながらぶらぶら歩いていた私達は、だんだんあせってきた。ガイドさんは「どこにでもある」と言っていたのに!

そうやって歩き回っているうちに、やっと1軒の陶器店を見つけた。中へ入ると、ごく普通のせともの屋で、特にチェスターの土産物を扱っている風でもない。それでも店内を探して、小さな動物の置物がたくさん並べてある一角に行き当たった。「お、猫もあるよ。これかなあ」「でも、笑ってないわね」などという会話の後で私達は、これはどうやらチェシャ猫ではないという結論に達した。同じ作りの羊だの犬だの牛だのといった動物といっしょに並んでいるし、その作りがずいぶん写実的で、どう見ても普通の猫だったのだ。私達は他の店を当たることにした。

だが、これが見つからない。陶器店も土産物屋もどうしても見つからないのだ。骨董品店はあるものの、のぞいてみてもやはりそれらしき猫はない。時刻はもう4時を過ぎている。「やっぱりさっきの猫がそうだったのかなあ」と言いながら、しかたなく先ほどの陶器店へ戻って尋ねてみることにする。店に入ると、店員のおばあさんはレジでお客と話している。じりじりしながらしばらく待ち、お客がやっと帰ったのでおばあさんに尋ねた。「チェシャーには、他の土地にはない特別の猫があると聞いたのですが・・・」「ああ、チェシャ猫のことね」「それ、それです!」「残念だけどここにはないのよ。えっとね」おばあさんはそう言って後を振り向いた。私達は気づかなかったが、店の奥にはもうひとり店員のおばさんがいたのだ。「Fragrant Oasisよね?」おばさんはうなずいた。「え? なんですか?」と私が聞き返すと、「 “fragrant” よ。ほら、香水をこうやって・・・」おばあさんは鼻の前で手をひらひら動かして香りをかぐまねをする。“fragrant”は「いい香りの」という意味だ。「ああ、あの fragrantですか」「Fragrant Oasisっていう名前のお店が向こうにあるの。そこに置いてあるわよ」その店ならさっき前を通りかかった憶えがある。意外だった。名前から言っても化粧品店みたいだし、表のショーウインドウにもそれらしい瓶が並んでいたので、中へは入らなかったのだ。聞き間違いかも知れないという一抹の不安を抱きながらも「どうもありがとう」と言って店を出たとき、私達の背後でおばさんが店じまいのために掃除機をかける音が聞こえた。

Fragrant Oasisはやはり化粧品店だった。店に入ってさっそく尋ねる。「チェシャ猫はありますか?」「ええ、いろいろありますけど・・・」そう言って店員が示したガラスのショーケースの中には、確かにチェシャ猫がいた。形はどれも同じなのだが、色と大きさがまちまちの猫の置物がたくさん置いてあったのだ。それはさっきの陶器店にあった猫とはまったく違い、体を真ん丸に丸めた猫がこちらに顔を見せて目を細め、にんまりと笑っているというものだった。どうやらかなり現代的なデザインだ。「不思議の国のアリス」の挿し絵のチェシャ猫を想像していた私達は、やっとみつけたという安心感もあってやや力が抜けたのだが、よく見ればこれはこれでなかなか味がある。私達はその猫が気に入った。そして、それほど大きくない黒いチェシャ猫を買って、すでに半分は閉店した商店街を抜け、にこにこしながらホテルへ戻ったのだった。

チェシャ猫のようににやにやしながら、というべきかも知れない。


続く

2008年1月6日日曜日

イングランドの笑う猫 2

「チェシャーの猫のようににやにや笑う」(grin like a Cheshire cat)という表現が英語にある。

“Melanie looked stunning, but wore a very simple outfit,” the friend said. “Antonio grinned like a Cheshire cat throughout.”
「メラニー(・グリフィス)はとても魅力的だったが、服装はシンプルだった」その友人は語る。「アントニオ(・バンデラス)は終始チェシャーの猫のようににやけっぱなしだった」

(People Daily 1996年5月16日)

You might have helped me out instead of sitting there grinning like a Cheshire cat!
そこに座ってチェシャーの猫みたいにただにやにや笑ってないで、私を助けてくれたってよかったのに!
( G.D.H. and M. Cole, The Man from the River, v. )

という風に使われる。

また、同じく猫が出てくる成句に「キルケニーの猫のように戦う」(fight like Kilkenny cats)というのもある。猫がけんかするのはよくあることだから、こっちの方はまあなんとなく想像がつく。辞書で調べてみると、「双方が倒れるまでとことん戦う」という意味だ。「新グローバル英和辞典」(三省堂)によれば、キルケニーはアイルランド南東部の州で、ここの猫は互いにしっぽだけになるまで食い合ったという伝説があるそうだ。また別の資料では、18世紀末キルケニーに駐屯していたドイツ人傭兵部隊が、2匹の猫の尻尾を結んでけんかさせるのが好きだったところから来たとか、実はその伝説にも元があって、ドイツの傭兵が2匹の猫の尻尾を結んでつるしておき、両方の猫の尻尾を切り取って猫を逃がしておいて、「尻尾だけ残してお互いを食べてしまった」と嘘をついたのだとも言う。

この伝説をもとにしたマザーグース(伝承童謡)もある。想像するに、このマザーグースのおかげで多くの人にこの伝説が広まることになったのではないだろうか。

There were once two cats of Kilkenny, キルケニーのねこ二ひき
Each thought there was one cat too many; たがいにはらで おもうには
So they fought and they fit, 二ひきじゃ 一ぴきおおすぎる
And they scratched and they bit, そこで二ひきはたたかった ののしった
Till, excepting their nails ひっかいた かみついた
And the tips of their tails, あとには つめとしっぽがのこっただけ
Instead of two cats, there weren’t any. キルケニーのねこ二ひき いなくなった

(谷川俊太郎 訳)

これと比べて「チェシャーの猫のようににやにや笑う」の方は、どうも意味が分りにくい。似たような英語の成句に、

as busy as a bee(蜜蜂のように忙しい)
as cunning as a fox(狐のようにずるがしこい)
as fat as a pig(豚のように肥えた)
as wise as an owl(フクロウのようにかしこい)

などという一連の直喩があるが、元来直喩というものはこういった誰にも分かりやすい喩えであるはずだ。蜜蜂は実際忙しく飛び回っているものだし、豚は実際肥えている。狐がずるがしこいというイメージは定着しているし、フクロウは知恵の象徴だ。同じような喩えだとすると、猫がにやにや笑うことになってしまう。チェシャー(Cheshire) はイングランド北西部にある州だが、ここの猫は笑うのだろうか?

しかしこの分りにくい慣用表現も、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を読んだことのある人なら、挿し絵のにやにやと笑う猫の顔を思い出して、ああ、ああいう風に笑うのか、とすぐに納得できるに違いない。実際、「新グローバル英和辞典」のこの句の項には「(にたにたと)得体の知れない笑みを浮かべる《Lewis Carroll作Alice’s Adventures in Wonderland(『不思議の国のアリス』)中の猫から》」とある。チェシャーの猫すなわちチェシャ猫はこの物語に登場する非常に印象的な猫で、常に耳から耳まで裂けたようなにやにや笑いを浮かべている。ちなみにキャロルはチェシャーの生まれである。

「不思議の国のアリス」の挿し絵を描いたのはサー・ジョン・テニエル(Sir John Tenniel) という画家で、Encarta’95 (Microsoft) 百科事典で調べてみると、キャロルはテニエルの才能を大変高く評価しており、「アリス」に挿し絵を入れるに当たって、登場する動物や人物がどういう姿をしているかという細かい描写は本文中にはしないでおいてまずテニエルにまかせ、描かれた絵に合わせて本文の方を変えるほどだったそうだ。チェシャ猫についてもそうだったようで、同じEncarta’95には、このチェシャ猫はキャロルとテニエルの “joint creation” (共同の創造物)であると書かれている。

キャロルの文章とテニエルの絵で描かれるチェシャ猫の姿は読者に強い印象を残す。特に物語の中盤のある場面では、木の枝の上に座っているチェシャ猫は尻尾の先から徐々に消えていき、最後には体の他の部分がすっかり消えてしまっても、にやにや笑いだけがしばらく残っていた。アリスはそれを見て「にやにや笑いなしの猫なら何度も見たけど、猫なしのにやにや笑いなんて初めてだわ!」と驚く。アリスばかりでなく読者にとってもここはかなり印象的で魅力的な場面ではないだろうか。(余談だが、私の知る限りでは、にやにや笑いだけ残して体全体を消すというこの芸は、チェシャ猫以外では漫画 “Peanuts”に出てくるビーグル犬スヌーピーだけが会得している。)

こう考えてくると、「チェシャ猫のように笑う」という表現が生まれたのも納得できるような気がする。あの「不思議の国のアリス」に出てくる猫のように、ということだったのだ。こうして辞書に載るまでに定着した慣用句を生み出すほど「アリス」は広く読まれたわけだ。

辞書に載るといえば、「新グローバル」以外の辞書にはどう書いてあるだろう。そう思って手元にある辞書をひいてみる。「リーダーズ英和辞典」(研究社)では、

Cheshire cat:チェシアキャット 《Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland に出るにやにや笑う猫》. grin like a ~ わけもなくにやにや笑う.

となっている。その他、手元にある辞典にあたってみると、

grin like a Cheshire cat: わけもなくにやにや笑う 《★【由来】 L. Carroll のAlice’s Adventures in Wonderland に出てくるにやにや笑う猫から》.( 研究社英和中辞典 )

grin like a Cheshire cat:《Alice in Wonderland 「不思議の国のアリス」に出てくるネコより》 (動きのない)ニヤッとした笑いを浮かべる( 小学館:ラーナーズプログレッシブ英和辞典 )

grin like a Cheshire cat: to smile or grin inscrutably: after the constantly grinning cat in the children’s story Alice’s Adventures in Wonderland (1865) by Lewis Carroll.(なぞめいた笑いを浮かべる:ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に登場する絶えずにやにや笑っている猫より)( The Random House Dictionary of the English Language )

やはり、「アリス」がこの句の起源であるようだ。

それでは「ジーニアス英和辞典」(大修館)ではどうか。

grin like a Cheshire cat: わけもなくにたにた笑う《Alice’s Adventures in Wonderlandにこの句をもじったネコ Cheshire catが登場する》.

これは困った。「ジーニアス」によれば、「アリス」のチェシャ猫もより先に「チェシャーの猫のように笑う」という表現が存在したことになる。いったいどういうことだろう?

続く

2008年1月5日土曜日

イングランドの笑う猫 1



「教えていただけますでしょうか」アリスはちょっとおどおどして言いました。「なぜあなたの猫はそんな風ににやにや笑っているのですか」
「チェシャーの猫だからよ」公爵夫人は言いました。「決まってるじゃない」

1995年夏のイングランドは猛暑だった。例年なら、夏とはいえそこは高緯度のイギリスのこと、真昼でもクーラーなど必要ない涼しさのはずなのだが、この年は異常な暑さだった。この旅行の初めに回ったスコットランドでも、昼なお暗く曇った空の下で霧に霞んで向こうの山まで続くヒースの荒野、などというイメージからは程遠く、確かにヒースの荒野はあったけれど、あくまでも晴れた空には太陽が明るく輝いていたのだった。この年の暑さはイギリスの人々にとっても異常なものだったらしく、あるときホテルの部屋で見たテレビのニュースでは警察からのお知らせとして、「高速道路を走るときには飲料水を用意しておきましょう。万一付近に人家のないところで車が故障あるいは渋滞した場合には脱水症で死亡の恐れがあります」などと呼びかけていた。普段なら夏でも涼しい土地柄、クーラーを備えた自動車はめずらしいのである。ロンドンのような大都会においてさえ、自動車に限らずホテルでもレストランでも、冷房設備自体がめずらしいものらしかった。ロンドンの町中を歩いているとレストランの前に掲げられた宣伝の札には、 “Air Conditioned” (冷房してます)と書かれているものがあった。つまりそれが客寄せになるくらいめずらしいということらしい。

このときの旅行には結婚して数ヶ月の妻と一緒に出かけたのだが(早い話がハネムーン)、私にとっては初めてのイギリスであり、彼女は海外旅行自体初めてだったので、慣れない街で迷うよりはと、ちょっと値が張るが安心なパッケージツアーにした。成田からまずはロンドンに着き、すぐに国内線の飛行機でネス湖のほとりのインバネスへ飛ぶ。そこからずっとバスで南下してだいたい1日に1個所ずつ各地を見学しながらスコットランドからイングランドへ入り、最後にロンドンという10日間の旅程だった。

ほとんどはバスで移動したわけだが、私達の団体が乗ったバスにも当然のように冷房がない。こう暑いと観光バスというのはやっかいなもので、車両の両側の大きなガラス窓は開かないから、唯一開閉可能な天井の換気窓を開けて走っているのだが、ここを開けても車内にはそよ風程度の空気の動きしかない。それでも停車中よりはいくらかましなので、私達二人は運転手さんに向かってひそかに「ぶっとばせー」と客席からつぶやいて声援を送ったものだった。それが効いたわけでもないだろうが、ドライバーのジムはイギリスに多く見られる曲がりくねった田舎道でも、Roundaboutと呼ばれるロータリー形式の交差点でも、高速道路並みの猛スピードでぶっとばし、車内を冷やすよりもむしろ乗客の肝を冷やしてくれた。

その旅もそろそろ終盤に差しかかろうかという頃、イングランド西部チェシャー州の州都チェスター(Chester)に到着した。 “chester”とは現代の英語にすれば “camp” (野営地)のことだそうだが、その名の通りここは古代ローマの時代にイングランドに侵攻したローマ軍の拠点だったところで、ローマ軍の要塞跡や円形劇場跡があったり、ローマ時代の砦に沿って中世に建てられた城壁が現在でも残っていて街の周囲をぐるりと囲んでいたりする。城壁の上は通路になっていて歩いて街を一周できる。ここに立って市街地の様子を眺めると、黒い木製の柱と梁も鮮やかな白い壁の建物が建ち並んでいた。イギリス到着以来、単純な私の頭の中では、イギリスに来たというだけで、エルガーの「威風堂々第1番」が鳴り続けていたのだが、この中世そのままという感じの町並みを見た途端、曲はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲に変わっていた。

ガイドさんに率いられての市内見学の後、ホテルでの夕食の時間までは自由行動となった。同じツアーグループのメンバーは三々五々街に散って行き、私達も買い物に行くことにした。目的のものがあったのだ。冷房のないバスに乗ってチェスターにまもなく到着というとき、ガイドさんが街の紹介をしてくれたのだが、その話の中で彼女はこう言った。「チェスターのおみやげと言えば、そうですね、あ、かわいい猫の置物があります。焼物でね、こう、にこっと笑ってるんですよ。ええ、みやげ物屋さんとか、どこにでも置いてあります」

ちょうど、家に飾る置物が欲しいね、などと話していた私達はこれを聞いて顔を見合わせた。ここはチェシャーで、笑う猫とくれば、あのチェシャ猫のことではないか。猫好きの妻と、一応は「不思議の国のアリス」を読んだことくらいはある私は、それだ!とうなずきあったのだった。
続く