2008年1月8日火曜日

イングランドの笑う猫 4

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「ジーニアス英和辞典」の記述によれば、「不思議の国のアリス」より前に、すでに “grin like a Cheshire cat” という慣用句が存在した。他の辞典の記述とは食い違うわけだが、では「アリス」とこの句の成立とではどちらが先なのだろうか。手近の資料を漁ってみたところ、次のような記述を発見した。

チェシャ猫:チェシャ(またはチェシャー)はキャロルが生まれた州の名。昔からgrin like a Cheshire cat(わけもなくにやにや笑う)という言い方があった。
(集英社文庫:「ふしぎの国のアリス」の訳注)

Cheshire-Cat:grin like a Cheshire-Cat「わけもなくにやにや笑う」という成句を逆用したもの。Cheshire-Catという固有の猫族があるのではない。
(旺文社英文学習ライブラリー 「ふしぎの国のアリス」の解説)

Ⅵ章にでてくるCheshire-Catは、キャロルの時代によく使われたto grin like a Cheshire cat という成句から比喩の例示の部分を独立させて逆成(back formation)したものである(しかし、今日ではこの「アリス」のCheshire-Cat が本家と思われるほど有名となった)。
(研究社出版:「アリスの英語-不思議の国のことば学-」)

残念ながらいずれの本にもこれらの記述の根拠は示されていないので、他の資料でそのあたりを探ってみよう。英語の単語や句の起源を調べるなら、何といっても権威のあるのはOxford English Dictionary (OED)だ。「不思議の国のアリス」が出版されたのは1865年だが、OEDで調べると、それ以前にすでにこの慣用句の用例がある。


1770-1819 Lo! like a Cheshire cat our court will grin.
1855 Mr. Newcome says.. ‘That woman grins like a Cheshire cat.’


「アリス」についてはこの句の用例のひとつとして扱われている。ということは、やはり、「アリス」がこの句の起源なのではないということになる。つまりキャロルは「チェシャ猫のように笑う」という表現が存在することを知っていて、その言葉どおりににやにや笑う猫、チェシャ猫を登場させたのだ。そう思ってみれば、「アリス」の読み方も少々変わってくる。「不思議の国のアリス」でチェシャ猫が初めて登場する場面はこうなっている。


アリスが公爵夫人の家に入ると、公爵夫人、胡椒を入れ過ぎたスープをかき回しているコック、赤ん坊、そして炉辺に座って耳まで裂けるほどにやにや笑っている大きな猫がいた。

‘Please would you tell me,’ said Alice, a little timidly.. ‘why your cat grins like that?’

‘It’s a Cheshire cat,’ said the Duchess, ‘and that’s why.’..

‘I didn’t know that Cheshire cats always grinned; in fact, I didn’t know that cats could grin.’

‘They all can,’ said the Duchess; ‘and most of ’em do.’


「教えていただけますでしょうか」アリスはちょっとおどおどして言いました。「なぜあなたの猫はそんな風ににやにや笑っているんですか」

「チェシャーの猫だからよ」公爵夫人は言いました。「決まってるじゃない」

「チェシャーの猫はみんなにやにや笑うとは知りませんでした。というより、猫が笑えるとは思ってもみませんでした」

「笑えるわよ」と公爵夫人。「たいていの猫は笑うわ」



チェシャ猫が作者達の全くの創作ならば、猫が笑うのも「不思議の国」の不思議なできごとのひとつということになろう。だが慣用句の方が先に存在したとすると話はちがってくる。この本が初めて出版されたときの読者にとっては、「チェシャーの猫のように笑う」という句を知っていれば、ああ、あれか、とニヤリとするところだろう。言葉の上だけでの比喩であったものが実体を伴って登場する。例えば “cool as a cucumber” (キュウリのようにクール;落着き払って、涼しい顔で)という慣用句を下敷きにして、実際に冷たいキュウリを登場させるようなものだ。チェシャ猫がキャロルとテニエルのまったくの創作だった場合よりもおもしろみがあると言えるかも知れない。また、なにしろこの物語にはしゃれ、パロディ、慣用句をその文字通りの意味でとらえたジョークなどの言葉遊びが満載されているので、チェシャ猫がその類のジョークであったとしても不思議はない。


余談だが、1980年のアメリカ映画「フライング・ハイ」《原題:Airplane!》は、慣用句を故意に文字通りの意味でとらえて、さらにそれをそのまま映像化して見せるというギャグで埋め尽くして作られていた。せりふは英語なので、慣用句ももちろん英語である。英語のせりふが聞き取れ、かつ慣用句の意味を知らないと笑えないというコメディで、この映画の日本公開のときには字幕担当者は相当苦労したのではないかと思われる。

物語の筋は、機長以下パイロット全員が食中毒で操縦不能に陥ったジェット旅客機を、たまたま無事だったスチュワーデスと、偶然乗客として乗っていた彼女の元恋人(彼は元空軍のパイロットだが、戦争中に自分のミスで戦友を死なせてしまい、それがトラウマとなって飛行機の操縦ができない)がなんとか無事に着陸させる、というものだった。

この中のひとつのシーンでは、元空軍パイロットが “When the band begins to play...” (「事態が深刻になったら・・・」)と言うと、話の筋とは何の関係もなく、コックピットにいるその他全員が突然管楽器の演奏を始める。もちろん、その慣用句の文字通りの意味(「バンドが演奏を始めたら」)をそのままやっているわけだ。

また、セリフのやりとりにもこの手のギャグが詰め込まれていて、例えばAとBの会話で、

A: Johnny, what can you make out of this?(ジョニー、これから何がわかる?)[Hands him a piece of paper](一枚の書類を手渡す)

B: This? Why, I can make a hat or a brooch or a pterodactyl -(これから? そうだな、帽子とか、ブローチとか、プテラノドンとか…)

“make out of...” は文字通りには「・・・から作り出す」の意味だが、Aのセリフでは「分る、理解する」の意味の慣用表現なのだ。なお、物語全体の筋自体も有名な1970年の航空パニック映画「大空港」《原題:Airport》その他のパロディであった。


「アリス」にはチェシャ猫以外にも同様のネーミングをされているキャラクターが登場するのはよく知られているところで、第Ⅶ章の “A MAD TEA-PARTY” に出てくる三月ウサギ(March Hare)は、 “as mad as a March hare” (春の交尾期のウサギのように狂気じみた)という、たいていの英和辞典に載っている有名な成句を元にしている。その成句にある通り、「アリス」に登場する三月ウサギは、もちろん頭がおかしい。さらに、このウサギとともにおかしなお茶会をくりひろげる帽子屋(Hatter)も同様の過程を経て作られたキャラクターで、英和辞典をひいてみればわかる通り “as mad as a hatter” (まったく気が狂った)という成句が存在するのだ。(一説によると、昔の帽子職人は帽子の製造過程で水銀を用いたため、それによる中毒で精神に異常をきたすことがあったのだという。)


さて、「アリス」はどうやら “grin like a Cheshire cat” の起源ではないらしい。そうすると依然としてよく分らないのは、なぜ「猫が笑う」というような不思議な比喩をするのかということだ。この点ではOEDも “undetermined” (明らかでない)としている。定説はないということだろうか。手近の資料では、前掲の「旺文社英文学習ライブラリー」の解説に次のように載っている。


英語の成句に grin like a Cheshire cat というのがあって、「ただむやみににやにや笑う」という意味であるが、外国人に対して愛想笑いのすぎる一部の日本人なんぞにも適用できるかもしれない。実は、この Cheshire cat の正体は不明なのである。何でも二説があって、ひとつはキャロルの故郷であるチェシャ州のある看板画家がその地方の宿屋の看板に、にやにや笑う獅子をかいたところからという。虎をかいて猫になるとは中国の故事でもあるけれども、獅子をかいてどうまちがって猫になったのかまでは筆者も知らない。もうひとつはチェシャ産のチーズといって大形で平たい円形チーズがあって、それがにやにや笑う猫の形に作られていたとか。どうもこっちがもっともらしい。それにしてもキャロルの最初の原稿にはこの猫はいなかった。今ではその原稿は5万ドルでアメリカから買いもどされ、大英博物館に収まっている。


つまり、1) 看板画家説 2) 猫型チーズ説の2つがあるらしい。順番に検討してみよう。まず 1) 看板画家が獅子を描いたらそれが笑う猫になった(そう見えるほど下手だったということか?)という説。これについては、同じ説を挙げている資料が他に見当たらないのだが、やや異なってはいるもののよく似た説は発見できた。それによると、この笑う猫の起源は現在でははっきりしないながらも、多くの人の信じるところでは、中世の画家がチェシャーの紋章を描くときに歯をむいているライオンを描こうとしたが、それまで一度もライオンというものを見たことがなかったので、できあがった紋章の絵はライオンというよりは笑っている猫に驚くほど似ていたということだ。




中世のチェシャー州の紋章がどのようなものだったのかは調べがつかなかったが、現在のチェスター市議会の紋章は左図のようなものだ。中央に見える盾の左半分に、縦方向に3匹の動物が並んでいる。よく見るとこれは3頭のライオンだ。上に挙げた説の原文は英語だが、そこではライオンは “lions”と複数形になっている。中世の紋章も右図と似たようなものだったとすると、小さく描かれたこの3頭のライオンあたりがまるで猫に見えたということだろうか。

また、「不思議の国の“アリス”-ルイス・キャロルとふたりのアリス」(舟崎克彦・笠井勝子 著、求龍堂)では、

一説には、チェシャ州の名門グローヴナ家の紋章にある猟犬を、猫に描き間違えた画家の失敗からきているという話もある

と紹介している。次に 2)猫型チーズ説だが、前掲の解説ではこちらの方がもっともらしいとしている。専門辞典で調べてみると、「英語諺辞典」(三省堂)では、

grin like a Cheshire cat: チェシャー猫のようにわけもなくただにやにや笑う。Cheshire catはLewis CarrollのAlice’s Adventures in Wonderland(1865)に出てくるにやにや笑う猫。チェシャー産のチーズが昔笑っている猫に似た形にして売られたのがこの句の起源と説明する人がいる。

と、「アリス」をあげながらも、チーズ説も紹介している。 Brewer’s Dictionary of Phrase and Fable でも、 “grin like a Cheshire cat” は、

An old simile popularized by Lewis Carroll. The phrase has never been satisfactorily explained, but it has been said that Cheshire cheese was once sold moulded like a cat that appeared to be grinning. (ルイス・キャロルによって広く知られるようになった直喩で、この句の起源については充分には分っていないが、チェシャーチーズがかつて笑っているように見える猫の形にして売られたと言われている)

チェシャーチーズはほぼチェダーチーズと同じもので、通常なら太い円筒形をしている。「新グローバル英和辞典」によれば「ぼろぼろした感じの甘味」だそうだ。チーズは型に入れて固めるから、猫型の型を使ったということなのだろう。 Encyclopedia Britannica によればイギリス産のチーズでは “Most widely known and consumed of these is Cheddar cheese, followed by Cheshire and others.” (最もよく知られ消費量も多いのはチェダーチーズで、チェシャーその他がそれに次ぐ)ということだ。チェシャーといえばまずはこのチーズで有名らしく、辞書をひいてみても、

Cheshire: a kind of firm crumbly cheese, orig. made in Cheshire [Cheshire, a county in England]

( Concise Oxford Dictionary )

Cheshire【名】:1 チェシャー《イングランド西部の州;【略】Ches.》. 2 =→~ cheese.
(ジーニアス英和辞典)

Cheshire: -n. 1 チェシア 《イングランド北西部の州; ☆Chester; 略 Ches.》. 2 →CHESHIRE CHEESE.
(リーダーズ英和辞典)


というわけで、 “Cheshire cheese” ではなく単なる “Cheshire” だけでチェシャーチーズのことを指すほどだ。それほどまでに有名なら、もし猫型チーズが作られてそれが大いに売れれば、辞書に載るほどよく知られた成句となる可能性はかなり高いように思われる。どうやらこれがこの句の起源だろうか。

続く

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