「教えていただけますでしょうか」アリスはちょっとおどおどして言いました。「なぜあなたの猫はそんな風ににやにや笑っているのですか」
「チェシャーの猫だからよ」公爵夫人は言いました。「決まってるじゃない」
1995年夏のイングランドは猛暑だった。例年なら、夏とはいえそこは高緯度のイギリスのこと、真昼でもクーラーなど必要ない涼しさのはずなのだが、この年は異常な暑さだった。この旅行の初めに回ったスコットランドでも、昼なお暗く曇った空の下で霧に霞んで向こうの山まで続くヒースの荒野、などというイメージからは程遠く、確かにヒースの荒野はあったけれど、あくまでも晴れた空には太陽が明るく輝いていたのだった。この年の暑さはイギリスの人々にとっても異常なものだったらしく、あるときホテルの部屋で見たテレビのニュースでは警察からのお知らせとして、「高速道路を走るときには飲料水を用意しておきましょう。万一付近に人家のないところで車が故障あるいは渋滞した場合には脱水症で死亡の恐れがあります」などと呼びかけていた。普段なら夏でも涼しい土地柄、クーラーを備えた自動車はめずらしいのである。ロンドンのような大都会においてさえ、自動車に限らずホテルでもレストランでも、冷房設備自体がめずらしいものらしかった。ロンドンの町中を歩いているとレストランの前に掲げられた宣伝の札には、 “Air Conditioned” (冷房してます)と書かれているものがあった。つまりそれが客寄せになるくらいめずらしいということらしい。
1995年夏のイングランドは猛暑だった。例年なら、夏とはいえそこは高緯度のイギリスのこと、真昼でもクーラーなど必要ない涼しさのはずなのだが、この年は異常な暑さだった。この旅行の初めに回ったスコットランドでも、昼なお暗く曇った空の下で霧に霞んで向こうの山まで続くヒースの荒野、などというイメージからは程遠く、確かにヒースの荒野はあったけれど、あくまでも晴れた空には太陽が明るく輝いていたのだった。この年の暑さはイギリスの人々にとっても異常なものだったらしく、あるときホテルの部屋で見たテレビのニュースでは警察からのお知らせとして、「高速道路を走るときには飲料水を用意しておきましょう。万一付近に人家のないところで車が故障あるいは渋滞した場合には脱水症で死亡の恐れがあります」などと呼びかけていた。普段なら夏でも涼しい土地柄、クーラーを備えた自動車はめずらしいのである。ロンドンのような大都会においてさえ、自動車に限らずホテルでもレストランでも、冷房設備自体がめずらしいものらしかった。ロンドンの町中を歩いているとレストランの前に掲げられた宣伝の札には、 “Air Conditioned” (冷房してます)と書かれているものがあった。つまりそれが客寄せになるくらいめずらしいということらしい。
このときの旅行には結婚して数ヶ月の妻と一緒に出かけたのだが(早い話がハネムーン)、私にとっては初めてのイギリスであり、彼女は海外旅行自体初めてだったので、慣れない街で迷うよりはと、ちょっと値が張るが安心なパッケージツアーにした。成田からまずはロンドンに着き、すぐに国内線の飛行機でネス湖のほとりのインバネスへ飛ぶ。そこからずっとバスで南下してだいたい1日に1個所ずつ各地を見学しながらスコットランドからイングランドへ入り、最後にロンドンという10日間の旅程だった。
ほとんどはバスで移動したわけだが、私達の団体が乗ったバスにも当然のように冷房がない。こう暑いと観光バスというのはやっかいなもので、車両の両側の大きなガラス窓は開かないから、唯一開閉可能な天井の換気窓を開けて走っているのだが、ここを開けても車内にはそよ風程度の空気の動きしかない。それでも停車中よりはいくらかましなので、私達二人は運転手さんに向かってひそかに「ぶっとばせー」と客席からつぶやいて声援を送ったものだった。それが効いたわけでもないだろうが、ドライバーのジムはイギリスに多く見られる曲がりくねった田舎道でも、Roundaboutと呼ばれるロータリー形式の交差点でも、高速道路並みの猛スピードでぶっとばし、車内を冷やすよりもむしろ乗客の肝を冷やしてくれた。
その旅もそろそろ終盤に差しかかろうかという頃、イングランド西部チェシャー州の州都チェスター(Chester)に到着した。 “chester”とは現代の英語にすれば “camp” (野営地)のことだそうだが、その名の通りここは古代ローマの時代にイングランドに侵攻したローマ軍の拠点だったところで、ローマ軍の要塞跡や円形劇場跡があったり、ローマ時代の砦に沿って中世に建てられた城壁が現在でも残っていて街の周囲をぐるりと囲んでいたりする。城壁の上は通路になっていて歩いて街を一周できる。ここに立って市街地の様子を眺めると、黒い木製の柱と梁も鮮やかな白い壁の建物が建ち並んでいた。イギリス到着以来、単純な私の頭の中では、イギリスに来たというだけで、エルガーの「威風堂々第1番」が鳴り続けていたのだが、この中世そのままという感じの町並みを見た途端、曲はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲に変わっていた。
ガイドさんに率いられての市内見学の後、ホテルでの夕食の時間までは自由行動となった。同じツアーグループのメンバーは三々五々街に散って行き、私達も買い物に行くことにした。目的のものがあったのだ。冷房のないバスに乗ってチェスターにまもなく到着というとき、ガイドさんが街の紹介をしてくれたのだが、その話の中で彼女はこう言った。「チェスターのおみやげと言えば、そうですね、あ、かわいい猫の置物があります。焼物でね、こう、にこっと笑ってるんですよ。ええ、みやげ物屋さんとか、どこにでも置いてあります」
ちょうど、家に飾る置物が欲しいね、などと話していた私達はこれを聞いて顔を見合わせた。ここはチェシャーで、笑う猫とくれば、あのチェシャ猫のことではないか。猫好きの妻と、一応は「不思議の国のアリス」を読んだことくらいはある私は、それだ!とうなずきあったのだった。
続く
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