「じゃ、そこで会おう」と猫が言いました。そして、突然消えてしまいました。アリスが猫のいた場所を見ていると、猫はまた突然現れました。
* * *
勇んで置物のチェシャ猫探しに出かけた私達は、少なからず苦労することになった。
チェスターの中心部には中世以来の古い家々が建ち並んでいて、歴史的町並保存地区といった趣きだが、その家々はテナントビルになっていて “the Rows” と呼ぶ商店街を形作っている。1軒1軒の家は3階か4階建てで一応それぞれ独立はしているのだが、家と家の間には隙間がなく何軒も軒を接している。商店は1階と2階にあり、2階の店に上がるには所々の家の外側の壁に設けられた階段を上る。では、外に階段がない家で2階の店に行くにはどうするかというと、ぴったりとくっついて建っている家々の2階、通りに面した側には必ずバルコニーがあり、これが同じブロック内の家々でつながっていて、まるで歩道のようになっているのだ。階段はこの歩道に上がるようになっている。通りを歩いていて2階の店を見たくなったときには、家の外の階段でまずこの歩道に上がる。2階の店はこの歩道に面している。隣の家の2階の店に移動するには、わざわざ地上に降りる必要はない。店の外の歩道に出て数歩も歩けばもう目的の店に着いているというわけだ。
この古い町並の商店街の店を片端から探したのだが、目的のものがなかなか見つからない。そもそもここに入っているテナントはファッション関係の店が多かったから無理もないのだが、このザ・ロウズに隣接する近代的なショッピングモールを歩き回っても、土産物屋や陶器店らしきものが見当たらないのだ。こうなるとのんきに「マイスタージンガー」の鼻歌など歌っている余裕もなくなってくる。というのは、チェスターに限らずどこの町でもそうだったのだが、ここイギリスではたいていの商店は午後4時半には閉まってしまうのだ。我々がチェスターに到着してからホテルに荷物を置き、ガイドさんの後について市内の見学をし終わったときにはもう3時を回っていた。最初は街の様子など眺めながらぶらぶら歩いていた私達は、だんだんあせってきた。ガイドさんは「どこにでもある」と言っていたのに!
そうやって歩き回っているうちに、やっと1軒の陶器店を見つけた。中へ入ると、ごく普通のせともの屋で、特にチェスターの土産物を扱っている風でもない。それでも店内を探して、小さな動物の置物がたくさん並べてある一角に行き当たった。「お、猫もあるよ。これかなあ」「でも、笑ってないわね」などという会話の後で私達は、これはどうやらチェシャ猫ではないという結論に達した。同じ作りの羊だの犬だの牛だのといった動物といっしょに並んでいるし、その作りがずいぶん写実的で、どう見ても普通の猫だったのだ。私達は他の店を当たることにした。
だが、これが見つからない。陶器店も土産物屋もどうしても見つからないのだ。骨董品店はあるものの、のぞいてみてもやはりそれらしき猫はない。時刻はもう4時を過ぎている。「やっぱりさっきの猫がそうだったのかなあ」と言いながら、しかたなく先ほどの陶器店へ戻って尋ねてみることにする。店に入ると、店員のおばあさんはレジでお客と話している。じりじりしながらしばらく待ち、お客がやっと帰ったのでおばあさんに尋ねた。「チェシャーには、他の土地にはない特別の猫があると聞いたのですが・・・」「ああ、チェシャ猫のことね」「それ、それです!」「残念だけどここにはないのよ。えっとね」おばあさんはそう言って後を振り向いた。私達は気づかなかったが、店の奥にはもうひとり店員のおばさんがいたのだ。「Fragrant Oasisよね?」おばさんはうなずいた。「え? なんですか?」と私が聞き返すと、「 “fragrant” よ。ほら、香水をこうやって・・・」おばあさんは鼻の前で手をひらひら動かして香りをかぐまねをする。“fragrant”は「いい香りの」という意味だ。「ああ、あの fragrantですか」「Fragrant Oasisっていう名前のお店が向こうにあるの。そこに置いてあるわよ」その店ならさっき前を通りかかった憶えがある。意外だった。名前から言っても化粧品店みたいだし、表のショーウインドウにもそれらしい瓶が並んでいたので、中へは入らなかったのだ。聞き間違いかも知れないという一抹の不安を抱きながらも「どうもありがとう」と言って店を出たとき、私達の背後でおばさんが店じまいのために掃除機をかける音が聞こえた。
Fragrant Oasisはやはり化粧品店だった。店に入ってさっそく尋ねる。「チェシャ猫はありますか?」「ええ、いろいろありますけど・・・」そう言って店員が示したガラスのショーケースの中には、確かにチェシャ猫がいた。形はどれも同じなのだが、色と大きさがまちまちの猫の置物がたくさん置いてあったのだ。それはさっきの陶器店にあった猫とはまったく違い、体を真ん丸に丸めた猫がこちらに顔を見せて目を細め、にんまりと笑っているというものだった。どうやらかなり現代的なデザインだ。「不思議の国のアリス」の挿し絵のチェシャ猫を想像していた私達は、やっとみつけたという安心感もあってやや力が抜けたのだが、よく見ればこれはこれでなかなか味がある。私達はその猫が気に入った。そして、それほど大きくない黒いチェシャ猫を買って、すでに半分は閉店した商店街を抜け、にこにこしながらホテルへ戻ったのだった。
チェシャ猫のようににやにやしながら、というべきかも知れない。
続く
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