「チェシャーの猫のようににやにや笑う」(grin like a Cheshire cat)という表現が英語にある。
“Melanie looked stunning, but wore a very simple outfit,” the friend said. “Antonio grinned like a Cheshire cat throughout.”
「メラニー(・グリフィス)はとても魅力的だったが、服装はシンプルだった」その友人は語る。「アントニオ(・バンデラス)は終始チェシャーの猫のようににやけっぱなしだった」
(People Daily 1996年5月16日)
You might have helped me out instead of sitting there grinning like a Cheshire cat!
( G.D.H. and M. Cole, The Man from the River, v. )
という風に使われる。
また、同じく猫が出てくる成句に「キルケニーの猫のように戦う」(fight like Kilkenny cats)というのもある。猫がけんかするのはよくあることだから、こっちの方はまあなんとなく想像がつく。辞書で調べてみると、「双方が倒れるまでとことん戦う」という意味だ。「新グローバル英和辞典」(三省堂)によれば、キルケニーはアイルランド南東部の州で、ここの猫は互いにしっぽだけになるまで食い合ったという伝説があるそうだ。また別の資料では、18世紀末キルケニーに駐屯していたドイツ人傭兵部隊が、2匹の猫の尻尾を結んでけんかさせるのが好きだったところから来たとか、実はその伝説にも元があって、ドイツの傭兵が2匹の猫の尻尾を結んでつるしておき、両方の猫の尻尾を切り取って猫を逃がしておいて、「尻尾だけ残してお互いを食べてしまった」と嘘をついたのだとも言う。
この伝説をもとにしたマザーグース(伝承童謡)もある。想像するに、このマザーグースのおかげで多くの人にこの伝説が広まることになったのではないだろうか。
There were once two cats of Kilkenny, キルケニーのねこ二ひき
Each thought there was one cat too many; たがいにはらで おもうには
So they fought and they fit, 二ひきじゃ 一ぴきおおすぎる
And they scratched and they bit, そこで二ひきはたたかった ののしった
Till, excepting their nails ひっかいた かみついた
And the tips of their tails, あとには つめとしっぽがのこっただけ
Instead of two cats, there weren’t any. キルケニーのねこ二ひき いなくなった
(谷川俊太郎 訳)
これと比べて「チェシャーの猫のようににやにや笑う」の方は、どうも意味が分りにくい。似たような英語の成句に、
as busy as a bee(蜜蜂のように忙しい)
as cunning as a fox(狐のようにずるがしこい)
as fat as a pig(豚のように肥えた)
as wise as an owl(フクロウのようにかしこい)
などという一連の直喩があるが、元来直喩というものはこういった誰にも分かりやすい喩えであるはずだ。蜜蜂は実際忙しく飛び回っているものだし、豚は実際肥えている。狐がずるがしこいというイメージは定着しているし、フクロウは知恵の象徴だ。同じような喩えだとすると、猫がにやにや笑うことになってしまう。チェシャー(Cheshire) はイングランド北西部にある州だが、ここの猫は笑うのだろうか?
しかしこの分りにくい慣用表現も、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を読んだことのある人なら、挿し絵のにやにやと笑う猫の顔を思い出して、ああ、ああいう風に笑うのか、とすぐに納得できるに違いない。実際、「新グローバル英和辞典」のこの句の項には「(にたにたと)得体の知れない笑みを浮かべる《Lewis Carroll作Alice’s Adventures in Wonderland(『不思議の国のアリス』)中の猫から》」とある。チェシャーの猫すなわちチェシャ猫はこの物語に登場する非常に印象的な猫で、常に耳から耳まで裂けたようなにやにや笑いを浮かべている。ちなみにキャロルはチェシャーの生まれである。
「不思議の国のアリス」の挿し絵を描いたのはサー・ジョン・テニエル(Sir John Tenniel) という画家で、Encarta’95 (Microsoft) 百科事典で調べてみると、キャロルはテニエルの才能を大変高く評価しており、「アリス」に挿し絵を入れるに当たって、登場する動物や人物がどういう姿をしているかという細かい描写は本文中にはしないでおいてまずテニエルにまかせ、描かれた絵に合わせて本文の方を変えるほどだったそうだ。チェシャ猫についてもそうだったようで、同じEncarta’95には、このチェシャ猫はキャロルとテニエルの “joint creation” (共同の創造物)であると書かれている。
キャロルの文章とテニエルの絵で描かれるチェシャ猫の姿は読者に強い印象を残す。特に物語の中盤のある場面では、木の枝の上に座っているチェシャ猫は尻尾の先から徐々に消えていき、最後には体の他の部分がすっかり消えてしまっても、にやにや笑いだけがしばらく残っていた。アリスはそれを見て「にやにや笑いなしの猫なら何度も見たけど、猫なしのにやにや笑いなんて初めてだわ!」と驚く。アリスばかりでなく読者にとってもここはかなり印象的で魅力的な場面ではないだろうか。(余談だが、私の知る限りでは、にやにや笑いだけ残して体全体を消すというこの芸は、チェシャ猫以外では漫画 “Peanuts”に出てくるビーグル犬スヌーピーだけが会得している。)
こう考えてくると、「チェシャ猫のように笑う」という表現が生まれたのも納得できるような気がする。あの「不思議の国のアリス」に出てくる猫のように、ということだったのだ。こうして辞書に載るまでに定着した慣用句を生み出すほど「アリス」は広く読まれたわけだ。
辞書に載るといえば、「新グローバル」以外の辞書にはどう書いてあるだろう。そう思って手元にある辞書をひいてみる。「リーダーズ英和辞典」(研究社)では、
Cheshire cat:チェシアキャット 《Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland に出るにやにや笑う猫》. grin like a ~ わけもなくにやにや笑う.
となっている。その他、手元にある辞典にあたってみると、
grin like a Cheshire cat: わけもなくにやにや笑う 《★【由来】 L. Carroll のAlice’s Adventures in Wonderland に出てくるにやにや笑う猫から》.( 研究社英和中辞典 )
grin like a Cheshire cat:《Alice in Wonderland 「不思議の国のアリス」に出てくるネコより》 (動きのない)ニヤッとした笑いを浮かべる( 小学館:ラーナーズプログレッシブ英和辞典 )
grin like a Cheshire cat: to smile or grin inscrutably: after the constantly grinning cat in the children’s story Alice’s Adventures in Wonderland (1865) by Lewis Carroll.(なぞめいた笑いを浮かべる:ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に登場する絶えずにやにや笑っている猫より)( The Random House Dictionary of the English Language )
やはり、「アリス」がこの句の起源であるようだ。
それでは「ジーニアス英和辞典」(大修館)ではどうか。
grin like a Cheshire cat: わけもなくにたにた笑う《Alice’s Adventures in Wonderlandにこの句をもじったネコ Cheshire catが登場する》.
これは困った。「ジーニアス」によれば、「アリス」のチェシャ猫もより先に「チェシャーの猫のように笑う」という表現が存在したことになる。いったいどういうことだろう?
続く
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